穴を掘る音
私は子供の頃、雨が降る夜明けにどういう訳かよく目が覚め、いつも同じ物音を聞いた。シトシトと降る雨ではなく、嵐のような激しい雨の日の夜明け近くに、決まってその物音を聞いた。その物音とは、本当に奇妙な話なのだが、土砂降りの雨音に混ざって「ザク」「ザク」という誰かが力強く土を掘る音なのである。
そんな土砂降りの雨の中、わざわざ私が寝ている部屋のすぐ近くで、スコップを突き立てて穴を掘る人などいるはずがない。もしいたとすれば完全に精神を病んだ人だ。
しかしどう聞いても、
「ザク」 「ザク」 「ザク」
という音は、紛れもなく穴を掘る音なのである。それは金属のスコップが硬い土を力強く一定のリズムで掘っている音なのである。
少年の頃の私は、何の根拠もなかったのだが、自分は重い病気にかかっていて、もうすぐ死ぬのだと思っていた。ただ単純にそう思っていた。いつも暗い顔をしている少年だった。初めてその音に気づいたのはちょうどその頃だった。
私が二十歳を越え大人になってからは、その記憶はナーバスであった子どもの頃の幻想なのかと一時期思い込んでいた。しかしその音は気がついてみれば、20代になっても時々聞こえるようになり、30代、そして40代、50代になった今でも、雨の激しく降る夜明けには時々、私の枕元に聞こえてくるのである。
本当に何年に一度かのことで、次にその音が聞こえる雨の夜明けになるまで、大概その事実自体を忘れてしまっている。妖怪か、何かのアモルファスだとかえってありがたいと思うくらい奇妙な物音で、それは本物の人間、きっと力強い男性が雨合羽をしっかり着込んで、私の部屋の外を掘っているに違いないと思っている。しかし、いつの時も次の日に家の周りを隈なく点検してみても、スコップで穴を掘ったような形跡はどこにもなく、そのような気配は微塵もなかった。
私が家を出て住む場所が変わってからもその音は時々聞こえた。20代の頃は木造のアパートで、しかも2階に住んでいたのだが、やはり時々激しい雨の日の夜明けには、明らかに階下のほうから、少し遠い音ではあるが聞こえて来た。ある時は思い切って窓から覗いてみようとしたことがあったが、できるものではなかった。このような状況の場合、屋外にいるものの方が、屋内にいるものよりも圧倒的に精神的優位だということを思い知らされた。もしそれが本当の人間の仕業で、ましてその力強い男がこちらを強く見たりなどする光景を思い浮かべると、とても恐ろしくて窓から外を垣間見る勇気がなかった。
それから、私は幾度も引越しを繰り返した。そして一時期完全に忘れてしまうくらい何年も聞こえない時期もあったのだが、やはり何処へいってもその音は私の周りを離れず、ついには強い雨の夜明けには聞こえるようになり、その事象を思い出すのである。
あまりの奇妙さに色々と考えてみた事もあった。父親が健在だった頃には、彼が雨のために壊れてしまった樋か水路を修理している音なのかと思い、後年確認したこともあったが、そんなことをしたことは一度もないということであった。そして彼が亡くなった後もその音は聞こえている。
また、雨樋と、激しい雨の関係でそのような音がするのかもしれないと考えたみたこともあった。ちょうどその頃激しい雨の日があり、私は夜明け近くにわざわざ目覚ましをかけて確かめた。明け方近くに目を覚ましたのだが、その時聞こえてきたのは、ただ雨が樋を激しく流れる音だけで、「ザク」「ザク」という穴を掘るような音は聞こえなかった。激しく雨が降る日でも、その音は、聞こえる日もあればと聞こえない日もあることが分かり、何かの物理的な原因により作り出される物音ではないことが判明した。
また、ある時はカセットテープレコーダーを用意し、辛抱強く強い雨が降る日を待った事もあったが、そう簡単には条件が揃わず、そのうち断念した。
どこへ行っても聞こえてくるという事は、当然精神的なものだと考えるのが普通である。そのリアルさからとてもそうは思えなかったが、この状況から考えてみるとその音が聞こえてくるのは精神的なもので、私の頭の中だけの出来事なのだと考えるのが普通であると考えた。とはいえ、その音が私にとってなにか重要な障害をもたらしているかというと、特に何もないのである。ほんの時々、ややもすれば数年に一度の夜明けの出来事なのである。わざわざ病院へ行って治療を受けようと思うほどのことではなかった。毎日毎日その音が続き、恐怖で眠れないという事ではなかった。ほとんどの場合、強い雨は二日も続かず、よってその音で目が覚める事も二日続く事はなく、次の日はぐっすり眠れているのが普通だった。精神的な病気にしては、インターバルが長すぎた。
私は実のことをいうと、それは精神的なものなどではないということを知っている。その雨の強い夜に私の寝ている近くで穴を掘る男は実際にいるのだと思っている。何のためにそんなことをしているのかわからないが、きっと私が生まれて間もないころから、それを続けているのだろう。私を激しく恨んで、何かに陥れてやろうとしているのか、もしくは私を何かの理由で守ろうとしているのか、また、そのどちらでもなく、両義的な行動をただとっているのか、とても不可解なのであるが、世の中には理由がよくわからない事も確実に存在する。この事実はそのカテゴリーに入れられる事なのである。
今から2年ほど前に、決定的なことが起こった。その頃、その音はすっかり影を潜め、私はもう本当にほとんど忘れかけていた。それが起きたのは夏のとても蒸し暑い夜明けだった。今から思うとその日も強い雨が降っていた。
私はフリーランスになったばかりで、仕事も少し滞り気味、締め切りに追われる嫌な抽象的な悪夢を繰り返し見て苦しめられていた。
明け方近くにやっと悪夢から覚め、ホッとしながら例の音のことなど何も考えず、何の恐怖心も持たないでゆっくりとトイレに起きた。
「ああひどい雨だな」
声にせずにぼんやり思い、雨の様子を見ようとウッドデッキに続く部屋のロールカーテンを何気なく開けた。
「ざっ」
その時、私の部屋の外を、黒い雨合羽を着た人影が、大きな水しぶきをい上げて慌てて走り去るのが見えた。ほんの一瞬の出来事だが確かに誰かが、はじけたように走り去って行った。夜明けの紫色の薄暗がりの中、庭木の濃い緑が雨に濡れていた。見た事もない大男だった。顔は見えなかった。何かを抱えていたように見えた。私は冷静になろうとした。もしかしたら新聞配達員なのだろうか。緊張のまま室内の郵便受けを確かめに行ったが、新聞はまだ届けられていなかった。
私は直感していた。
「あの男だ」
やはり現実の出来事であることを確信した。何かを抱えていたのはおそらく穴を掘るための金属のスコップなのだろう。ふと気がついて見ると、いつもあの音がする状況にぴったりの強い雨の降る夜明けの時間である。これから穴を掘るつもりだったのであろうか。
警察に届けようとも考えたが、決してそれでは解決にならない。また、信じてももらえまい。いや考えてみれば解決すべきトラブルは基本的に何もない。暗示とか象徴のようなものではなく、私が私自身に何かを伝えようとする増幅されたメタファーなのか。彼は本当は私なのか。それは今、本当に現実を超えた現実であることを理解してしまった。
私は居間でソファに座り込んだまましばらく動けなかった。色々な思いが駆け巡った。頭が狂っていないかを、私なりの方法で確認をした。次に彼が私の家にやってきて穴を掘るのは何年後になるのだろう。それともこれが最後になるのだろうか。
空はどんどん明るくなってきたが、雨は夜が明けても激しく降り続けた。