国宝展に行って
私は、小さなイラストであっても、大きな絵画であっても、それが心のどこかにストンと隙間を埋めるような感じがあるかないかを、今の自分にとっての良し悪しの基準のようなものにしています。
今回、京都の国宝展に出かけました。大変な盛況ぶりで、日本人のゆとりと好奇心の深さに舌を巻く思いでした。しかし残念ながら、私にはすべてが良いものとしては、理解できませんでした。
過酷な閲覧環境のせいもありましたが、それを差し引いても心にストンと落ちるものは少なく思いました。(国宝に対して恐れ多い話ですが、個人の感想なので許してください)
エネルギーの満ち溢れた作品は世の中にたくさんあります。それがアートから大きく逸脱したものも、過去にはたくさんあったと思います。
大切なのは切り取り方であり、コントロールのしかたであり、その価値の見せ方だと思います。もしかしたらそれがいちばん大切なことで、すべてかもしれません。
降年のビートルズなどはいつの時代もとてもうまく切り取られ、その魅力を今に伝える事に成功しています。もちろん真に価値が高いことは第一条件ですが、逆にいえばどんな国宝もアートも、工芸品も扱いをひとつ間違えば、ガラクタ同然だと言うことです。
フランス料理もお皿に乗っているものと、三角コーナーに入っているものは、物質的にはそれほど違いません。
かつてブームになり、一時期本当に美しく輝いた物も、その時代の支持した人と一緒に腐っていくことは多く見られます。素敵に思えたことが、いつか滑稽に見えてきて不快に感じたりもします。
いつまでも、ずっと良いものって本当にあるのでしょうか?
誰もが良いと口々に言って、いつの間にか感化され、踊らされて、信じてしまう。しかし時代が変われば腐ってしまう。うまくコントロールされて再び輝いたものもあれば、ごみになったものもある。
私は父がかつて一生懸命書いた、大量の日本画を自分には必要がないので、すべて燃やしました。それで良いと今でも思っています。
国宝展に行って、いろいろな事を思いました。