知るということ
昔人間がもう少しお猿さんに近かったころ、ほんの少しのことしか覚えられませんでした。朝起きて大きな獲物が偶然にも手に入ったら、午前中は仲間と大喜びして食べたいだけ食べても、午後からはそのこと自体をすっかり忘れてしまいます。「今日はなんか腹持ちがいいなあ 」くらいにしか思えず、記憶はすぐになくなっていました。
その頃の人間は大変幸せでした。瞬間的な争いは絶えずしていましたが、いつまでも恨んだり、根に持ったりということは頭の容積上できませんでした。ちょうど猫が猫じゃらしに興奮しても少し歩いたらもう忘れているような、大変あっさりした暮らしをしていました。
しかし長い間暮らしていると、記憶のいい人も少しずつ現れてきて、その人達は集団の中では有利に事を運べるようになり、指導者になり、子孫を増やし、力をもつようになってきました。そして長い年月を経て私たち人間の中には優秀な頭の人がたくさん増えてきて、ほとんどの人が長い記憶をもつ様になりました。これは人類として喜ぶべき素晴らしいことだったのでしょう。
しかしそれと同時に大変厄介で深刻な悩みを背負う事になるのです。それは記憶が長く続くということはまた逆に未来も簡単に想像ができるという事なのです。今まで、3時間したら全て忘れていたのに3時間前のことを覚えてる。ということは3時間後の事も容易に想像ができるようになり、3時間経ったらまたお腹が空く。そして3時間後のために食事を用意しておいたり、また冬のために果物をたくさん蓄える事ができるようになりました。
そしてもっともっと先のことを想像できるようになって人間は、ついに「死」を発見してしまったのです。もっともっと先は人はいつか死ぬことを発見してしまったのです。今まで猫みたいに瞬間瞬間の事しか考えられなかったのに。
さあ大変です。 人はそのことを考えると頭がおかしくなってしまいます。人間はみんなで集まって不幸を嘆いたかもしれません。何かに頼ったり優しい言葉をかけて欲しいと思いようになりました。心の抜け道を必死で探しました。
そこで自然に発生してきたのが宗教です。また哲学です。だから世界中に宗教が存在するのはそんなわけなのです。誰か偉い人が作ったようになっていますが、つまりは人は宗教のような慰められ、納得できるものがないと耐えられなくなってしまったからなのです。そういう理由から人の暮らしの中には自然発生的にたくさんの宗教が発生したのだと考えられます。
これが人類が発見した最大の不幸なのでしょう。世界中の生き物で、死を理解している動物は人間だけです。そして宗教を持っている動物も人間だけです。これが人の頭の容積に原因があり、知らなくても良いものを知ってしまったのです。
我々は、今日もどんどん真実を見つけています。科学や物理の世界、哲学や宗教などから導き出される考え方。それは信じられないくらい便利で明るい生活をもたらしています。しかし、人はもっとおそろしい事を発見するかもしれません。それはどんなことかはわかりませんが、例えば一部の哲学者が唱える「唯我論」。すべての世界は自分が作り出しているという説が、科学的に証明されてしまったり。
知ると言うことはどんどん恐ろし方向に進んでいるのかもしれません。「唯我論」がもし正しいのなら、この文章自身、あなたが自分自身に対して発しているメッセージということになります。こんなおそろしいことはありません。逆に言うと、宗教で対立したり、利益のために争ったりしている方が、まだ無邪気で救われるような気もします。
パンドラの箱は、まだまだあると思います。このへんでそういった危険を理解して、後ろ向きにあえて歩きだすことが必要なのかもしれません。
しかし人のどこまでも続く「知る」という欲望はいつか人間の世界が自滅してしまうまで、止められないのでしょう。そしてそれは加速度的に現れあっという間に世の中に浸透して大パニックを起こしてそして滅びてしまうのかもしれません。知るということは怖いことですね。